このところ、新聞やテレビなどマスメディアの報道の客観性が問われている。「メディアは事実だけを客観的に報道するべきだ」「偏向報道や切り取りはけしからん」という国民の批判が高まっている。
ところで、客観性・客観的とはどういうことだろうか。
マスメディアには、客観的な報道が要求されている。放送法の第1条には「不偏不党」が規定されており、NHKはその意味について「具体的には、政治上の諸問題は公正に取り扱うこと、また、意見が対立している公共の問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにし、公平に取り扱うといったことです」(NHKホームページ)としている。
この「そりゃそうだよね」という一般的な考え方とまったく違う立場を取るのが、マックス・ヴェーバーだ。ヴェーバーはその名も『社会科学および社会政策にかかわる認識の「客観性」』という論文(私がこれまで読んだ中で最も難解な論文。一読をお勧めしない)で、客観性について次のように「価値自由」という考え方を提示している。
数値化して認識できる自然現象と違って、社会現象を認識する際には、どうしても個人が持っている価値前提が入り込んでしまう。ここで、個人の価値前提を排除するのではなく、自分自身の価値前提や政治的な立場、そして認識の限界を自覚し明示することが、社会現象を扱う上での客観的な態度である…。
ヴェーバーによると、客観性に欠ける好ましくない態度とは、自分はさまざまな利害関係者の立場を超越し、不偏不党で自説を主張している、と振る舞うことだ。たとえば、新聞が「われわれは特定の政治信条をまったく持っておらず、事実をありのままをお伝えします」と表明する場合だ。
逆に、客観的で好ましい態度とは、自分が拠っている前提・立場やそれによる限界を自覚し、明示した上で、自説を主張することだ。たとえば、新聞が「わが社は国民の代理として政権の暴走や腐敗をチェックすることを目的とし、政権に批判的な報道を重点的に発信します」と表明する場合だ。
ヴェーバーによると、放送法が定める「不偏不党」や国民の切り取り批判は、間違っているし、そもそも実現不可能なことだ。テレビは限られたニュースの時間の中で、新聞は限られた紙面のスペースの中で、世の中で起こったすべてのことを伝えることはできない。何らかの情報の切り取りをせざるを得ない。
インターネットなら時間やスペースの制約はないと思うかもしれないが、今度は見る側がマスメディアに代わって膨大な情報から切り取り作業をすることになる。誰が切り取りをするか、という違いだ。
誰でも情報を入手できるインターネット時代のマスメディアの存在価値は、情報収集力・知識・分析力で劣る一般人が切り取りするよりも、より効果的・効率的に切り取りができるというところにある。
そして、切り取り作業においてカギになるのは、切り取る人の立場・利害・主義信条だ。マスメディアは自社の立場・利害、前提条件を自覚し、ニュースなどを発信するときにはそれらを明示する必要がある。そのためには、まず放送法の「不偏不党」という非現実的な規定を撤廃する必要があるだろう。
(2024年12月9日、日沖健)