徳のない日沖さんが徳について語る

先々週、文春オンラインに拙稿「大暴落に勝つ人・負ける人の差」が掲載された。株式市場が乱高下する状況で、私の投資経験を踏まえて個人投資家に向けたアドバイスを書いた。

すると、例によって知り合いの“噛み付き系診断士Sさん” が、早速Facebookに「資本の論理の暴力」と題して私へのバッシングを投稿していた。「金儲けの自慢話をするな」から始まって、私の過去の悪行を厳しく糾弾し、最後は「もう少し徳のある生き方をして欲しいものだよ。尊敬できない姿を晒さないで欲しいね」と締め括っていた。

Sさんのバッシングには反論したいことがたくさんあるのだが、私が「徳のある生き方をしていない」という指摘は、まったくその通りだ。そこで、夏休みの課題ということで、1週間「徳」について考えてみた。

私は、徳がないだけでなく、「徳のある生き方をしよう!」と思ったこともない。小中学校の「道徳」や高校の「倫理」の授業は、教条主義的で大嫌いだった。大学生になってアダム・スミス『道徳感情論』やマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んで、勝手に拡大解釈し、「他人に善い行いを施すこと」よりも、「自分なりの天職を見つけ出し、それに忠実であること」の方が大切だと思った。

今回、生まれて初めて「徳」について考えるに当たり、まず自分から見て「徳があるなぁ」と思う人を想い起こした。マザー・テレサなどを差し置いて真っ先に思い浮かんだのが、知人のNさんである。

Nさんを見ていて感心するのは、困っている人を見かけたら、条件反射的に手助けをすることだ。先日も、山手線の電車内で閉まりかけているドアに外国人が挟まれたら、近くにいたNさんは間髪入れずに駆け寄って、ドアをこじ開けようと手助けした。Nさんの隣にいた私は「とろ臭い外人だなぁ、でも助けた方が良いのかな」と一瞬考えた。考えている内に、ドアが自動的に開いて外国人は無事だった。

私も災害ボランティアをしたり、恵まれない人に寄付をしたり、世間では「善い」と言われることをまあまあしている。ただ、頭で考えて、「やった方が良い」と判断してからやっており、「ちょっと違うなぁ」と思う。その点Nさんは、朝の挨拶をするのと同じ感じで、とっさにさりげなく善い行いをする。この違いは大きい。

「徳がある」というのは、Nさんのように「習慣的に自然に他人に善い行いをする状態」だとしよう。すると次に、「努力をすれば徳がある人になれるのか?」という疑問が出てくる。

まだそういう努力をしたことがないので断定はできないが、私は「無理かな」と思う。つまり、努力によって善行をするかしないか判断する時間を短縮することはできるが、人間性はそんなに大きく変わらないので、努力しても「自然に、とっさに」という状態にはならないという気がする。

とすれば、「徳がある人」になろうとするよりも、自分自身の比較優位(相対的に強いところ)を見つけ出し、それを生かせる仕事に真摯に取り組み、他人がそれを感謝してくれれば「ラッキー!」、という生き方が現実的だと思う。

とここまで考えて、今まで「徳のある生き方をしよう!」と考えなかった私は、まんざら間違っていないのかなと思った。何でも自分に都合が良いように考えるというのは、まさに「徳がない人」の特徴のような気もするが…。

 

(2024年8月19日、日沖健)