「好きなタイプ」よりも「嫌いなタイプ」を重視する理由

先週木曜日、自宅近くにある馴染みのカフェに立ち寄った。ママさんと女性客が「好きな男性のタイプ」について話し始めて、私が話に加わった。

ママさんは「頭が悪い男性はノーサンキュー。うちの旦那とか許せない」と言い、女性客は「俺が俺が、という男性はちょっと勘弁願いたい」と言った。しばし、「嫌いな男性のタイプ」で盛り上がっていた。

私が「嫌いなタイプじゃなくて、好きなタイプについて話していたんじゃないですか?」と口を挟んだ。すると二人は、「好きなタイプはパッと思いつきませんねぇ」「なんとなく、フィーリングでしょうか」とあいまいなコメントだった。

どうやら女性は、男性を品定めするとき「好きなタイプ」よりも「嫌いなタイプ」を重視するようだ。これは男性も同様だ。結婚相談業をしている知人によると、「聡明な女性が好きなのでお願いします」と明確に好みを伝える男性客は少なく、「金遣いが荒くなければどんな女性でもOKです」と最低条件を示す男性客が多いとのことである。

パートナーとしての異性を評価するとき、「好きなタイプ」よりも嫌いなタイプを重視するのはなぜだろうか。ここで2つ仮説を思いついた。

一つは、好きという快楽よりも嫌いという苦痛の方が強く感じられることだ。行動経済学のプロスペクト理論によると、人は快楽よりも苦痛をより大きく感じるということが分かっている。

若いころは、異性と快楽や苦痛をともにすることはないため、「あの人と一緒になれたらどんなに幸せだろう」と夢想する。ところが人生経験を積んで異性と快楽や苦痛をともにすると、苦痛がより大きく感じられ、苦痛を避けることを重視してパートナー選びをするのだろう。

もう一つは、根本的に人間は異性のことが嫌いであるという仮説だ。人間は自分と似たものが好きで、違ったものが嫌いだ。男性と女性はまったく別の生き物で、男性と女性の違いは犬と猫の違いよりも大きいと考える人もいる。できれば大嫌いな異性とはかかわりたくないが、どうしても結婚するなら、マイナスが大きい相手を避けようとする。

というと、「俺は女が大大大好きだぞ」と反論する男性諸氏がおられるかもしれない。しかし、これは女性そのものが好きなわけではなく、性欲を満たす道具として好きなだけだ。男女ともたいてい、夫婦で語らうよりも会社の飲み会や近所の井戸端会議で同性としゃべっているときの方が気楽で楽しいのではないだろうか。

ここで、二つ目の仮説が正しいとすれば、日本の将来にとって由々しきことである。かつて男性には「結婚して子供を産んで一人前」という社会圧力が、女性には男性に頼らざるを得ないという経済的理由があり、好きでもない異性と結婚した。しかし、こうした状況が変わり、好き合った場合だけ結婚するようになると、結婚は激減し、少子化も加速する。近年、世界的に少子化が進んでいるのは、これが原因かなと思う。

仮説は二つとも正しいという気がするし、まったく勘違いかもしれない。今度チコちゃんに、「たけしです。5歳(プラス53歳)です)」と投書してみたい。

 

(2024年5月13日、日沖健)