フランス革命以降、人類にとって普遍的な価値だとされている自由と平等。その自由と平等に関連して個人的に最近モヤモヤとするのが、秋篠宮家の長男である悠仁様(16)の進学先など皇室・皇族を巡る世論だ。
悠仁様は現在、筑波大学附属高校の2年生で、「卒業後は学習院ではなく、東大か早慶あたりに進学するのではないか」「学力はトップレベルではないが、難関大学に入学許可される予定」と週刊誌などで報道されている(すべて憶測であろう)。
それに対しネット掲示板・SNSでは、「うちの子はいま必死に受験勉強をしている。受験せずに好きなところに進学できるのは、不公平だ」「我々からむしり取った税金を使って大学に行くって、おかしい」といった不満・反発の声が噴出している。
私は天皇制に反対の立場だ。小室眞子さんが度々訴えたように、皇族には様々な制約が課せられ、トイレと風呂場しか自由がないという過酷な生活を強いられている。わずか17名とは言え、基本的人権の侵害を看過することはできない。天皇制・皇族を廃止し、悠仁様には好きな大学を受験し、自由な人生を送っていただきたいと願う。
しかし、天皇制反対という人はごく少数で、大半の日本人が天皇制を支持している。ならば、将来天皇になる可能性が高い悠仁様には、最高の教育機関で最高の教育を受けていただくのが、国家のためになる。受験だの学費だのウザいことを言わず、東大でもハーバードでも適切だと思われる大学に進学していただくべきではないだろうか。
小室眞子さんには「皇室は特別な存在なんだから、自由が欲しいとかわがままを言うな」と自由を抑圧し、悠仁様には「皇室だからといって特別扱いせず、一般国民と同じように受験しろ」と平等を求めるのは、支離滅裂としか言いようがない。日本人は口では「天皇・皇室を敬っています」と言うが、ずいぶん不敬だし、人として冷酷すぎると思う。
自由と平等は相対立する。自由に絵を描けば、上手い人と下手な人が出てくる。企業が自由に競争すれば、勝つ企業と負ける企業がどうしても出てくる。会社員が自由に出世競争をすれば、幹部に昇進する勝ち組とずっと平社員のままという負け組が出てくる。自由と平等が両立することはなく、どちらを重視するか、どこで折り合いをつけるかという話になる。
私の見る限り、日本では、「多少の自由を犠牲にしてでも、平等であるべき」という考えが主流のようだ。悠仁様の件だけではない。高校野球では「慶応の応援がうるさくて仙台育英の選手が不利だったから、平等になるように応援を規制しろ」という議論が盛り上がっている。脱成長コミュニズムという共産主義思想が人気を集めている(「脱成長コミュニズムの致命的な問題点」参照)。
もちろん、自由と平等のどちらを重視するかは、国民の選択だ。国民が自由に決めれば良い。ただ、気になるのは、自由については、格差の拡大など様々な問題点が指摘されているのに対し、平等については、問題点がほとんど議論されていないことである。
労働者も資本家も、経済的に豊かになりたい。国際的な移動が許されるなら、自由に活動して大きな利益を上げられるアメリカなどの国に流れていく。一方、共産主義など平等主義の国からは、企業・労働者・資本が逃げ出す。平等主義を徹底すると、経済的にどんどん衰退し、結局「みんなで仲良く貧乏」という悲惨な社会になってしまう。
自由と平等が両立するという幻想に惑わされず、自由と平等それぞれのメリット・デメリットを直視し、国のあり方を冷静に考えたいものである。
(2023年9月4日、日沖健)