3月13日にマスク着用ルールが緩和されて、1か月近くになる。私は、仕事でお客様から「付けてください」とお願いされない限り外しているが、周りを見渡すとだいたい7~8割が引き続きマスクをしている。
屋外で人との間隔が十分あるのに着けているところを見ると、コロナ対策が目的でないことは明らかだ。花粉症対策で着けているという人以外は、「みんなが着けているから」「顔を見られるのは恥ずかしい」「なんとなく惰性で」といった、心理的・習慣的な理由であろう。
ところで、国が指針で「個人の判断を尊重する」としたことから、「マスクを外そう!」と言ってはいけない世論・空気が形成されているような気がする。ネット掲示板などを見てもは、「着けるも着けないも個人の自由。他人に着脱をお願いするのを控えるべき」という意見が目立つ。
しかし、私は「(できるだけ)マスクを外そう!」と声を大にして言いたい。マスクを着けて他人と接すると、コミュニケーションが悪化してしまうし、相手に対し失礼に当たると思うからだ。
たとえば、私の事務所に営業マンがセールスにやってきたとする。私はいつものようにマスクを外していて、営業マンがマスクを着けたままセールストークをしたとしたら、どうか。私は彼から何も買わないだろう。
まず、マスク越しだと声がこもって、相手が説明が聞き取りにくい。相手の表情が見えず、何を考えているのかよくわからない。また、営業マンが私の表情をジロジロと観察し、自分は表情を隠しておこうというのは、客に対して無礼だ。
言っていることも考えていることもわからず、無礼極まりない人から、何かを買おうという気は起こらない。当然、私は「マスクを外してもらえませんか」とお願いするだろう。営業マンは、果たして「個人の判断を尊重してもらえませんか」と言うだろうか。
というたとえ話をある人に伝えたら、「ビジネスではそうかもしれないけど、ビジネス以外では、他人と深い関係を築くのも築かないのも、個人の勝手じゃないですか」と反論された。
なるほど、たしかにそういう考え方もあるのだが、これを突き詰めると、良かれと思って発する社会への呼びかけがすべて「余計なお世話」になり、学校での道徳・倫理の授業は不要になってしまう。
「明るく元気に挨拶しましょう」→「俺は根暗だし、元気もないんですが、何か?」
「お年寄りに親切にしましょう」→「お年寄りって赤の他人なんですが」
「規則正しい生活をしましょう」→「不規則な生活で誰かに迷惑をかけてます?」
国民がマスクを着けていてコミュニケーションが制約された社会とマスクを外して笑顔で闊達に人々が交わり合う社会。どちらが好ましいか、言うまでもないだろう。私に言わせると、「マスクを外そう!」というのは、「明るく元気に挨拶しましょう」と同レベルの当たり前の呼びかけだ。国民全体が当たり前の呼びかけを躊躇している昨今の風潮は、何とも異様である。
もちろん、これはあくまでも呼びかけであって、強制ではない。感染対策で着用している人にまで呼びかけるものではない。また、呼びかけに応じない人を非難するつもりも毛頭ない。念のため。
(2023年4月10日、日沖健)