袴田巌さん殺人未遂事件

1966年の袴田事件の死刑囚・袴田巌さん(87)の再審請求の差し戻し審で、東京高裁は先週13日に再審を認める決定をした。これで袴田さんが無罪になる可能性が高まった。本日20日が検察が決定の取り消しを求める特別抗告の期限で、検察の対応が注目される。

東京高裁の再審決定では、検察が物的証拠と主張する衣類5点について、「第三者がみそ漬けにした可能性がある。捜査機関による可能性が極めて高い」とし、捜査機関による証拠捏造を強く示唆した。当然だ。事件直後にくまなく捜査して発見できなかったのに、1年も経ってものの見事に発見されたら、普通は強要された自白に基づく捏造を疑う。

捜査機関が証拠を捏造し、それを元に検察が死刑を求刑したのは、単なる捜査ミス・違法捜査を超えた、国家権力による国民の殺害行為である。袴田事件をきっかけに「袴田巌さん殺人未遂事件」が起こったわけだ。知り合いの弁護士によると、袴田さんは国に損害賠償を請求できても、警察や検察を殺人罪に問うことはできないらしいが、国の責任は重大である。

これだけ証拠不十分な事件で死刑判決を下し、再審を始めるというだけで半世紀以上もの歳月を費やしたという裁判所の過失も含めて、袴田事件には日本の司法制度の問題点が凝縮されている。近く袴田さんが無罪になったとしても、国は一件落着とせず、司法制度の抜本的な改革を進めて欲しい。

ところで、企業経営を専門とする者として私は、警察・検察・裁判所の一連の対応から、日本の組織の致命的な欠陥を痛感してしまう。4点ほど指摘しよう。

第1に、空気が支配し、空気に反することを口にできない。早い段階から多くの捜査関係者・司法関係者が袴田さんは冤罪である、違法捜査が行われたと考えていたが、いったんしょっ引いた容疑者を何として有罪にしなければならないという組織の空気に支配され、誰も声を上げられなかった(組織を離れてから声を上げた人はいるが)。

第2に、過ちを認めない。当事者はともかく、警察・検察・裁判所の後輩は、「違法捜査でした」「誤審でした」と認めて、諸先輩を悪者にすれば良いと思うのだが、誰も過ちを認めていない。

第3に、自ら改革を進められない。自白の強要は憲法で禁止されており、国際的な批判を浴びているにも拘らず、今も続いており、法務省は重い腰をなかなか上げようとしない。他にも、外圧で渋々改革に少しだけ応じるというのがパターン化している。

第4に、人権意識が希薄だ。検察は、袴田さんが死んで有耶無耶になることを目指して、引き伸ばしを図っている。裁判所も、2014年の釈放まで半世紀近くを費やし、袴田さんの人生を奪った。人権という考え方がまるでない。

こうした欠陥の根底にあるのは、警察・検察・裁判所では「組織防衛」を他の何よりも優先すべしという思想だ。この思想によって、社会・国民のために存在するはずの警察・検察・裁判所が、組織を守るために正義・公共の利益・人権を無視するという恐るべき異常事態が起こった。

ただ、我々は、警察・検察・裁判所を笑っている場合ではない。多くの企業で社長から従業員までグルになって不祥事を隠ぺいしている通り、日本では「組織防衛」の優先順位はかなり高い。

日本企業では、一昔前には「愛社精神」、最近だと少しソフトに「エンゲージメント」と称して、従業員に企業との強い繋がりを要求する。これが高じて、「組織のためなら」と不正も犯罪も正当化しているように思う(もちろん「愛社精神」「エンゲージメント」はプラス面もあるのだが)。

「愛社精神」や「エンゲージメント」の強制によって、従業員が社会の常識・公益や顧客ニーズとかけ離れた行動をすることがないよう、十分に注意したいものだ。

(2023年3月20日、日沖健)