私事だが、「食のインフレ」に関する最近の体験を2つ。
先週、東急東横線・都立大学駅のそばにある「ナポレオン軒」に初めて行ってみた。昨年オープンしたこの店は、釜玉ラーメンを産み出した話題の店である。釜玉ラーメンとは、讃岐うどんでは定番の釜玉うどんのラーメン版で、醤油ダレが掛かった太麺に卵黄と白髪ネギが乗っており、麺と卵をかき混ぜて食べるという料理だ。
一番安い「釜玉中華そば・小」(490円)を食べてみた。シンプルだが、麵の味がストレートに伝わり、なかなか美味。なるほど、人気店になるのも納得だ。ただ、チャーシューなどトッピングがないラーメンは、豚にエサをあてがわれているようで、個人的にはあまり良い気分はしなかった。
ナポレオン軒のオーナーは、小宮一哲さん。ファーストリテイリングに勤務した経験がある小宮さんは、「つけめんTETSU」を手掛けて2000年代のつけ麺ブームを先導した。その小宮さんが釜玉ラーメンを考案したきっかけは、昨今のインフレ。ラーメンの原材料が高騰していることに対応し、価格を抑えるためにトッピングをそぎ落としたらしい。
先々週、シンガポールを訪問した際、「Brewerkz」というレストランに行った。この店は私が石油会社時代にシンガポールに駐在していた2000年頃にオープンした同国初のブリュ―パブで、店内の醸造設備で作られたビールを楽しめる。
以前は「ちょっと高いな」と思っていたが、今回さらに値上がりしていた。ビールは1パイントで1,600~2,100円、サラダが1,500円、パスタが3,000円。日本の同タイプの店のほぼ倍だ。ただ、料理のクオリティもサービスも以前より格段に上がっており、今回は逆にそんなに高いと思わなかった(旅行中で金銭感覚が麻痺していたのかもしれない)。
なかなかの人気で、店内は予約で満席。欧米人や地元の人がビールを片手に大騒ぎしていた。私が駐在していた頃は1店舗だけだったが、今はシンガポール国内に4店舗、インドネシアにも2店舗を展開している。
この2つの経験で、日本人の私は暗澹たる気持ちになった。
日本企業は、インフレによる仕入価格の高騰に対し、原価の無駄を省いたり、ステルス値上げするなど、質を落としてでもできるだけ販売価格を上げないよう努めている。消費者もマスコミも、こういう企業努力を支持し、値上げせず頑張るけなげな企業に熱いエールを送る。
シンガポール企業は、インフレで仕入価格が高騰したらさっさと値上げし、それでもお客様に来ていただけるように、品質・サービスの改善に努める。消費者は、高い値段に見合うより質の高い店を求める。
日本企業もシンガポール企業も、利益を上げるために頑張っており、経営意思決定としては、どちらも「正解」だろう。消費者にとっても、低品質・低価格を好む消費者もいれば、高品質・高価格を好む消費者もいて、両方が「正解」だ。
ただし、マクロ経済的には、日本のやり方は大いに問題がある。各社が販売価格を維持するために品質を下げると、商品・サービスが進化しない。企業は売上が増えず、給料も減り、経済は縮小サイクルに向かう、国民の生活の質はどんどん下がっていく。
日本企業・日本人がこういう「正しい」行動を取るのは、1990年代からデフレが長く続き、デフレマインドが染みついているからだろう。昨今のインフレは一時的な現象で、少し耐えていればまたデフレに戻ってくれるという観測がある。
一昨年までデフレが異常だったのか、昨年からのインフレが異常なのか。ガソリン補助金などの政策を見ると、岸田首相ら政府は昨今のインフレが一時的な異常事態であり、その場しのぎをすれば良いと思っているようだ。
やはりシンガポールのように、持続的なインフレを前提に、企業はより質の高い製品・サービスを提供する、従業員はしっかり働いて稼いでより良い暮らしをする、という発想と政策の転換が必要だ。
(2023年2月13日、日沖健)