セコム・飯田亮に見るベンチャー企業の成功法則

警備保障大手セコムの創業者・飯田亮氏(以下、敬称略)が17日に逝去された。享年89歳。1962年にセコムを創業し、一代で1兆円企業を作り上げた、日本を代表する名経営者である。

飯田の軌跡を振り返ると、ベンチャー企業の成功要因が凝縮されているように思う。

セコムの第1の成功要因は、運である。1962年の創業当時、警備保障というビジネスは日本に存在しなかった。それが短期間で市場に浸透したのは、1964年に開催された東京オリンピックの選手村の警備を担当し、知名度・信用度を上げたことが大きかった。ただ、オリンピックの受注はまったくの幸運だった。

最初オリンピック組織委員会から警備を依頼されたとき、飯田はオリンピック後の需要急減で警備員が余剰になることを懸念し断った。しかし、当時、警備保障を担える企業はセコムしかなかったので、組織委員会から懇願されて渋々引き受けた。

しかもタイミングがすごい。もし翌1963年に創業したら、さすがに時間切れで受注できなかっただろう。1960年以前に創業したら、まだ貧しかった日本で警備保障ビジネスが成功するのは難しかったし、もし成功したら、参入者が現れ大乱戦になっていたことだろう。1年遅くても2年早くてもだめで、1962年に創業したことが成功に繋がった。

もちろん、運だけでセコムがここまで成長したわけではない。第2の成功要因は、イベントや事業所に人を派遣し常駐させる人的警備が主体だったのを、家庭からセンサーで異常を探知し、警備員を急行させる機械警備に転換したことである。

きっかけは、派遣先の伊勢丹で警備員が盗みを働いた事件である。信用第一の警備保障ビジネスの根底を揺るがす事態に直面し、飯田は人的警備の限界を悟った。人的警備は、契約を獲得するたびに警備員を採用し、教育しなければならない。警備員を管理するのも煩雑だ。そして、1人でも事件を起こせば信用が失墜してしまう。

そこで飯田は、センサーを使った機械警備の開発に着手し、1964年に早くも機械警備を導入した。機械警備によって、警備の質が上がっただけでなく、装置産業化し、契約数増とともに低価格化した。また、家庭という数千万の巨大市場に参入することができた。

機械警備のめどが立ったら、飯田は役員全員の反対を押し切って人的警備から撤退した。人的警備は、極端に言えば夫婦二人で起業できるので参入障壁が低く、収益性が低い。また、事業をスピーディに拡張することもできない。もし飯田が人的警備にこだわっていたら、セコムがここまで高成長・高収益の企業になることはなかっただろう。

飯田とは逆に、失敗するベンチャー企業の経営者は、総じて運がない。まったく悪運続きという可哀想な起業家もいるが、多いのは、運が巡ってきても掴み切れないというケースだ。いずれにせよ、天才的な起業家なら確実に成功するというわけではなく、運を掴むことが大切だ。

運を掴み、努力して事業を軌道に乗せても、成功を見て模倣するライバルが現れ、たちまち競争が激化する。そのためたいていのベンチャー企業は、斬新なアイデアで一世を風靡するにとどまる。長期的に成功するには、そこで満足せず、環境変化に応じて柔軟にビジネスモデルを変革し続ける必要がある。

日本に画期的なベンチャー企業が現れなくなったと言われて久しい。飯田はこの世を去ったが、彼に続くベンチャー企業が続々と表れることを期待したい。合掌。

 

(2023年1月23日、日沖健)