昔話で恐縮だが、留学していたアメリカのMBAで、会計の教師が成績が悪い生徒を「お前はその成績では、卒業してもhamberger-flipping jobしかないぞ!」と一喝した。hamberger-flipping job(ハンバーガーをひっくり返す仕事)とは、つまらない仕事の俗語である。
アメリカは訴訟社会なので、「この教師はそのうち訴えられてクビになるかな」とハラハラしていたら、何事もなかった。それどころか、次の戦略の教師もその次に組織論の教師も、「お前はhamberger-flipping jobだ!」と言い放っていた。
日本で大学教師がそんなことを言ったら、訴えられないとしても、「差別主義者だ」とマスコミやSNSで大騒ぎになるだろう。「成績が悪い学生が低レベルの職業にしか就けないのは、厳然たる事実ではないか」と反論しても、世間が許さない。
江戸時代の思想家・石田梅岩は、「職業に貴賤なし」と言った。職業上の地位の高低によって人の価値は決まらない、という意味だったが、今日では「職業そのものに貴賤はない」という意味で使われている。石田梅岩が言う意味と職業そのものの貴賤の両方について考えてみよう。
まず、石田梅岩の主張は、今日でも当たっているだろう。トランプ元大統領やゴーン元社長などを見ると、政治や企業経営では人を押しのけて自分だけのし上がろうとする意地汚い性格の方がむしろ成功している印象だ。もちろん、稲盛和夫のような高潔な経営者もたくさんいる。職業上の地位の高低と人の価値の高低は、ほとんど関係ないと見て良さそうだ。
一方、職業そのものの貴賤は、「ある」と考えるべきだろう。よく「単純労働も、価値があり、必要とされているからこの世に存在するのだ」と言われる。しかし、現実には人類は単純労働をなくそう、機械化しようと知恵を絞っている。今後なくそうとしていることを、現在存在するというだけで「価値がある」とするのは、さすがに無理がある。
このことと関連して、私がふと考えるのは、人の能力の高低と職業の貴賤の関係である。
人は働いて収入を得なくては生きていけないので、能力と関係なく貴い仕事(=収入の高い仕事)に就きたいと考える。権力欲に駆られて、不相応に貴い職業を望むこともある。これは、良い仕事ができず、周りの人や社会に迷惑を掛けるので良くない。
逆に、人間は怠惰なので、十分な財産を手にすると、高い能力を持っているのに不当に賎しい職業に就いて楽をしようとする。これは、せっかく才能を与えてくれた親や神様に申し訳が立たず、やはり良くない。
人は自分の能力や特徴を知り、それに合った職業を選ぶべきだろう。いわゆる「天職」である。
マックス・ヴェーバーは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でベルーフ(beruf)論を展開した。ドイツ語で職業を意味するberufは、神から与えられた使命、天職という意味が込められている。つまり,プロテスタントにとっては、自分がいま生きている社会のうちで勤勉に働くことが神の意志に最もかなうことになる。
私は、二十年前に会社を辞めて、コンサルタント・研修講師・投資家・ライターなど色々なことをして収入を得ている。サラリーマン時代よりは楽しく生活しているが、どれが天職かと言われると、よくわからない。人生百年の時代、これからもじっくり模索していきたいと思う。
(2022年9月12日、日沖健)