MBAでクラスメイトだったアメリカ人デビッド・パグリアが5月に亡くなった。日本のYKKに勤務したことのある知日派のデビッドが語った次の言葉を思い出した。
「私がこれまで会った日本人は皆、知的で理性的なのに、国民を悲惨な戦争に追いやった昭和天皇を崇拝している。まったくクレイジーで、この点だけは理解不能だ」
そして、同じくクラスメイトのエリック・グスタフソンから浴びせられた言葉を思い出した。エリックはUS Coast Gurard(アメリカ沿岸警備隊)に勤務する国粋主義者である。
「昭和天皇がなかなか終戦を決断できないから、われわれが原爆を落としてあげたんだ。原爆投下がなかったら本土決戦になり、最低でも日本は朝鮮半島のように分断するか、最悪、日本人は全滅していただろう。戦後、日本の海軍首脳も原爆投下を感謝してたじゃないか(おそらく米内光政海軍大臣のこと)。タケシも原爆のおかげでこの世に生まれたんだから、アメリカに深く感謝しろ」
デビッドの訃報を聞いてこうした言葉を思い出し、この6月から7月にかけて、太平洋戦争について終戦工作を中心に色々と調べてみた。
戦後、昭和天皇が戦争責任を追及されず、逆に国民から崇拝されたのは、以下の3つの認識があるのではないか。
① 東条英機ら陸軍が天皇に迫って対米開戦に踏み切り、開戦後は作戦を主導した。
② 海軍は対米開戦に消極的で、敗色濃厚になると終戦工作を主導した。
③ 昭和天皇は常に平和を願っていた。陸軍に迫られてやむなく対米開戦に応じたが、終戦の機会を探っていた。
簡単に言うと、「陸軍=悪玉、海軍=善玉、昭和天皇=被害者」という構図だ。これは、開戦前から終盤まで陸軍出身の東条英機が戦争を指導した、終戦時の首相が海軍出身の鈴木貫太郎だった、ポツダム宣言の受諾を聖断したのが昭和天皇だった、極東軍事裁判で処罰された戦犯の大半が陸軍出身者だった、という事実によるものだろう。
しかし、吉田裕・纐纈厚・山田朗らの研究によると、このうち概ね正しいのは①だけで、②と③は間違っているようだ。
まず、海軍に関する②。海軍には米内や山本五十六のようは開戦反対派も一部いたが、日中戦争の戦線拡大で陸軍の政治権限と組織を増長していく中、地盤沈下を避けるために陸軍の対米開戦に協力した。そして戦局が悪化しても、陸軍と衝突することを恐れて、終戦工作には消極的だった。海軍は、終戦工作を木戸幸一内大臣・近衛文麿元首相・伏見宮らいわゆる宮中グループに委ね、傍観者の立場を終始した。
それよりも検討が必要なのは、③の「昭和天皇は常に平和を願っていた」という点だ。昭和天皇は、開戦前はアメリカと戦って勝てるのか不安に感じていたが、腹が決まると作戦遂行に強く関与した。戦況が悪化し、1944年春から東条政権を打倒する政治的な動きが出始めると、昭和天皇は全幅の信頼を置く東条首相の下での戦争継続にこだわり、東条打倒の動きを強くけん制した。
そして、1945年になっていよいよ敗戦が必至になると、昭和天皇は一撃講話論、つまりアメリカに勝てないまでも一撃を与えて有利な条件で講和しようという考え方に固執した。最後の一撃として昭和天皇は沖縄戦に期待し、沖縄が占領されてようやく一撃講和論を諦めた。そして、原爆投下とソビエトの対日参戦でポツダム宣言の受諾に追い込まれた。
終戦工作で昭和天皇が一貫して拘ったのは、国体護持、つまり天皇制(天皇家)の存続だった。国体護持の確約がないから、という理由で、昭和天皇の決断は遅れに遅れた。その間、南方での玉砕、東京大空襲、特攻隊、沖縄戦、原爆投下などで尊い命が失われた。
太平洋戦争の日本の死者数は310万人で、その9割以上の命が1944年以降の最後の1年間に失われた。昭和天皇が国体護持より国民の生命に目を向けていたなら、早期に終戦を決断し、多くの命を救うことができたのではないだろうか。
1997年にデビッドとエリックから昭和天皇への批判を聞いたとき、私は感情的に反発した。しかし、こうして歴史を振り返ると、デビッドとエリックにロジカルに反論するのは難しく、昭和天皇の戦争責任、とくに終戦が遅れた責任は免れないと思うのである。
(2022年8月15日、日沖健)