先週(8月30日「教育爆発は再来するか」)に続き、日本の教育の歴史について振り返ってみたい。今週は、江戸時代にどういう教育が行われていたのか、現代の教育にどういう示唆があるのか、という点について考えてみよう。
江戸時代、幕府の昌平坂学問所や各藩の藩校が武士の教育を、手習塾(寺小屋)や私塾が庶民の教育を担っていた。そして、1872(明治5)年の学制の発布で近代的な学校教育が始まった。江戸時代の教育と学制以降の近代教育には、どういう違いがあるのか。
一般には、江戸時代は儒学が中心で観念的だったの対し、明治以降では欧米の科学教育を取り入れて実践的になった、と言われる。しかし、儒学は幕府や藩が庶民を統制するための道具だったし、手習塾の読み書きそろばんは庶民が生きて行く上で必要なものだった。どちらが観念的・実践的とは言い難い。
むしろ、明治以降の教育の方が観念的で、しかも「かくあるべし」という理念的な色彩が強かったと見る向きもある。辻田真佐憲は『文部省の研究』の中で、明治以降150年間の学校教育は「国(文部省)が理想の日本人像を求め続けた歴史だった」と述べている。文部省(2001年から文部科学省)は、戦前は「天皇に奉仕する臣民」、戦後は「平和と民主主義の担い手」「勤労する企業戦士」という日本人像を求めて、教育行政を推進した。
一方、江戸時代、1780年代の教育爆発(爆発的な教育の普及)を経て1800年代になると、幕府の昌平坂学問所の影響力は相対的に低下し、各地の私塾など自由な学問が力を増した。明治以降と比べて、江戸時代後期の方が「日本人はかくあるべし」という統制色は薄かった。
学校生活や教育スタイルも、江戸時代の方が自由だった。多くの藩校や私塾・手習塾では、授業の時間やカリキュラムが明確に決まっていなかった。とくに手習塾は、農作業を済ませた農家の倅がめいめい集まって学んだ。
藩校や私塾の学習形式は、古典の原文を繰り返し読んで暗記する「素読」、書物の内容や語句の意味などを説明する「講釈」、数人が集まって同じ書物を読み、その内容や意味を研究し討論し合う「会読」の3段階だった。いずれも生徒が自分で学び、補助的に先生が指導するというスタイルで、手習塾を含めて江戸時代は「自学自習が基本だった」(山本正身『日本教育史』)。
「教育」と「学習」は同じような意味で使われるが、「教育」する主体は先生、「学習」する主体は生徒だ。江戸時代に行われていたのは「学習」、明治以降行われるようになったのは「教育」と言える。
明治維新後に短期間で欧米列強に追いつくには、欧米の科学技術を取り入れて生徒に教え込む「教育」は、非常に効率が良かった。戦後の高度成長期に、会社組織の中で規律正しく働く企業戦士を育てるという点でも、有効だった。
ところが、1980年代に欧米がもはやお手本ではなくなり、2000年以降、新しい知識を生み出すことが重視されるようになると、「教育」の限界が目立つようになった。初等・中等教育では「教育」が引き続き重要であるものの、高等教育・専門教育・社会人教育では、主体的に「学習」することが必要になっている。
いま、社会人が自分なりのテーマを主体的に学ぶリカレント教育(リカレント学習と言うべきだが)が注目を集めている。リカレント教育が普及し、再び「学習」が当たり前の状態になるかどうかが、今後の日本の盛衰を決めるだろう。
(2021年9月6日、日沖健)