教育爆発は再来するか?

8月に日本の教育の歴史について色々と調べてみたので、2週に渡って考えたことをまとめてみたい。今週は、日本ではどのように教育が普及し、明治以降の国家の発展をもたらしたか、という論点である。

近代的な学校教育は、1872(明治5)年の学制の発布で始まった。なので我々は、明治時代の学校教育の普及によって日本の近代化が進んだ、と考えがちだ。しかし、それ以前から日本人の教育水準は非常に高く、明治維新以降の発展の下地がすでにできていた。

では、いつ日本人の教育水準が上がったのだろうか。諸説あるが、注目されるのは18世紀後半に起こった「教育爆発」である。

江戸時代の教育は、幕府の昌平坂学問所や各藩の藩校と民間の手習塾(寺小屋)や私塾が担った。江戸時代に開校した295の藩校のうち、寛政から文政(17891829)の40年間に84校が開校している(辻本雅史『「学び」の復権』)。手習塾の全国の年平均開業数は、江戸時代初期から中期まで5件未満だったのが、天明(17811788)に12.6件に跳ね上がっている(石川松太郎『藩校と寺小屋』)。この爆発的な教育の普及を「教育爆発」と呼ぶ。

18世紀後半は、それまで比較的順調だった幕藩体制が大きく揺らいだ時期だった。天明の大飢饉(1782年から5年も続いた)による凶作などで収入が減る一方、貨幣経済の浸透などで支出が膨らみ、幕府・藩の財政が極度に悪化した。そこで、幕府・藩は行財政改革に乗り出すことになった。

ここで諸藩が取り組んだのが、人材の育成・登用だ。改革の知恵を出すのも、実行するのも、人材である。米沢藩・上杉治憲(鷹山)の興譲館(1776年開設)や秋田藩・佐竹義和の明徳館(1792年開設)など、改革に成功し名君と称えられた藩主は厳しい財政事情の中、藩校を設置し、改革を主導するリーダーの養成に力を注いだ。つまり、18世紀後半の危機が「教育爆発」を生み、今日まで続く日本の発展の礎になったということになる。

ただし、幕府の対応は違った。寛政の改革(17871793年)で老中・松平定信は、囲米(米の備蓄制度)の導入や質素倹約によって、危機が過ぎ去るのを待った。そして、体制を引き締めるために、幕府公認の学問である朱子学以外の学問を湯島の聖堂(後の昌平坂学問所)で教えること禁止した(異学の禁)。民衆には、出版統制で思想をコントロールした。寛政の改革で、幕府による人材育成はむしろ後退した。

その後も19世紀以降、異国船来航という国家の危機を受けて、各藩は先進地域の長崎・大阪などにある私塾に有望な若い藩士を留学させ、世界情勢や先端技術を学ばせた。私塾で学んだ下級藩士が藩の改革、さらに倒幕・明治維新を主導した。一方、幕府は、昌平坂学問所を中心とした学問の秩序に固執し、蘭学の導入などで後手に回った。人材育成の違いが雄藩と幕府のその後の盛衰を決めたと言ったら、言い過ぎだろうか。

いま日本は、短期ではコロナ禍、長期では人口減少、高齢化、国際競争力の低下、財政難、巨大地震と難題が山積で、危機に直面している。しかし、政府や企業の対応は、同じく危機に直面した18世紀の雄藩の対応とは、ずいぶん異なる印象だ。

国・地方の文教予算は、財政難を受けて2012年をピークに減少が続いている。とりわけ研究開発への支援が低調なのは気になるところだ。企業は、コロナ禍で研修費用を削減しているし、史上最多の早期希望退職を募集している。人材育成よりも人減らしで生き残ることに懸命だ。政府にも企業にも、江戸時代の雄藩のように人材育成で危機を乗り越えようという発想はなく、幕府の対応に酷似している。

ただ、一つ光明と言えるのは、社会人の間でリカレント教育(学び直し)が流行しつつあることだ。社会や技術の変化が激しい今日、学校で学んだことはすぐに陳腐化してしまう。リカレント教育で知識・スキルをアップデートするのは、現代の社会人にとって必須だ。

18世紀後半の「教育爆発」は雄藩が主導した。今回は、一般社会人が主導して2度目の「教育爆発」が起こり、日本が復活することを期待したい。

 

(2021年8月30日、日沖健)