私事で恐縮だが、3月23日、長女が大学を卒業し、9日後の4月1日、次女が入れ替わりで同じ大学の同じ学部に入学した。ただ私は、同じ講堂で行われた卒業式・入学式のどちらにも参加しなかった。そもそもコロナで父兄の参加が制限されていたので、長女からも次女からも「パパ来て」と誘われなかった。ただ、仮に誘われたとしても「遠慮しておくよ」と断っただろう。
世間の常識からすると「相当なひねくれ者」ということになるが、入学式や卒業式に参加する意義を見いだせないのだ。
まず入学式。コロナ禍の昨年・今年はともかく例年、入学式には新入学生の数倍の父兄・一族郎党が参加する。東大・明大のように学内の講堂では入りきらず、日本武道館を使う大学もある。父兄・一族郎党が入学式に馳せ参じるのは、日本では受験戦争を勝ち抜いて良い大学に入ることが人生の一大目標であり、子供・孫の「生涯最高の晴れ舞台」をこの目に焼き付けたいからだろう。
このように盛大な入学式はすっかり春の風物詩だが、入学式に父兄・一族郎党が馳せ参じるというのは、おそらく日本と韓国くらいではないだろうか。アメリカの大学には、そもそも入学式がない(まったくゼロかどうかは未確認)。私が1997年にアメリカの大学院に留学したときも、入学式はなく、初日に事務担当者からガイダンスがあっただけで、2日目からすぐに授業が始まった。
アメリカで入学式がないのは、学期制で入学の時期が分散しているという事情もあるが、それよりも「わざわざ集まるに値しない」ということだろう。大学入学を人生のハイライトだと考えるアメリカ人はいないし、教育理念に賛同して入学してきた新入生に改めて学長から教育理念を説明するのも二度手間だ。私もアメリカ人と同じように、娘の大学入学をことさらお祝いする気にはなれない。
一方、卒業式は、日本だけでなく、アメリカを含めて世界中の大学で盛大に行われている。謝恩会・追いコンも派手にやる。4年間学業を始め色々な苦楽をともにした学友と卒業を祝うというのは、晴れがましい光景だ。
だったら長女の卒業式には行ってあげれば良いのに、と言われそうだが、「卒業式」という名称が気に入らない。「卒」とはものごとを止めること、つまり卒業式は「学業を止める式」という意味になる。子供の頃から勉強してきてもう勉強は懲り懲り、苦しくつまらなかった勉強とのお別れを盛大に祝おう、というお疲れさん会なのか。
学生時代にかなり勉強したという人でも、会社に入って最初の半年間で大学4年間の数倍のことを学ぶ。学生時代の勉強は、勉強のやり方を少しかじったに過ぎず、卒業後は会社という場で新たな学びのステージが始まる。ちなみにアメリカでは、卒業式のことをcommencementと呼ぶ。「始まり」という意味だ。もっとも日本の卒業式の正式名称は「学位授与式」なので、名称が気に入らないというのは、単なる言いがかりかもしれない…。
盛大な入学式は、実力よりも学歴や世間の評判を重視する日本社会の風潮を象徴している。卒業式あるいは卒業という言葉は、社会人の学びを軽視する日本社会の問題点を表している。毎年この時期になると入学式・卒業式を見て、学歴よりも実力を重視する社会、学校を出てからさらに学びを加速させる社会になって欲しいと考える。
(2021年4月5日、日沖健)