東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)の女性蔑視発言が、国際的な波紋を呼んでいる。総理大臣時代から問題発言が多かった森会長だが、この大事な時期にコロナ対応などでも問題発言を連発しており、もはやその存在は老害そのもの、百害あって一利なしという嘆かわしい状態だ。
森会長は2月4日の記者会見で女性蔑視発言を撤回し、謝罪した。しかし、会長を辞任することは否定した。本人は「人生最後のご奉公」ということで、東京オリンピック・パラリンピックを見届けるまでやる気満々のようだ。老いの一徹というところか。
ここで不思議かつ残念なのは、菅首相ら政府・自民党に首脳から森会長に辞任を迫る動きが見られないことだ。森会長の発言が世界中から非難を招き、国民の政府への不信感を増幅させており、政府の政権運営に甚大な悪影響を与えている。政府・自民党はなぜ森会長に辞任を迫らないのかと思う。
猫の首に鈴を付けられないのは、自民党だけではない。このところ立憲民主党の蓮舫副代表が国会で代表質問すると、決まってネットでは「蓮舫黙れ!」「誠意がないのはお前の方だ!」とバッシングの嵐が吹き荒れる。どうして枝野代表ら立憲民主党の執行部は、蓮舫副代表を国会の代表質問など表舞台から降ろさないのか、理解に苦しむところだ。
政治の世界だけではない。企業では、社長を辞めたら会長・顧問・相談役といった肩書で会社に居座り、老害をまき散らすことが多い。東京福祉大学では、部下への強制わいせつ罪で実刑に処された中島恒夫氏が学長に復帰した。1千年以上前から「院政」が行われている通り、猫の首に鈴を付けられないのは、日本全体に蔓延している問題と言えそうだ。
猫の首に鈴を付けるのは、なぜそんなに難しいのだろうか。
よく言われるのは、日本人は恩義や礼節を重んじるので、組織の功労者・恩人・年長者などを排除するのは「恩知らずだ」「失礼に当たる」という説だ。たしかに、森会長は総理大臣として国政を担った自民党の功労者だ。森会長に恩義を感じている自民党員は多い。蓮舫副代表も、民主党が政権を獲得することに貢献した。功労者・恩人はなかなか批判しにくいし、ましてや排除するというのは、勇気がいることだ。
しかし、組織のトップは、そういう心理的な側面よりも、実利的なマイナス面を強く意識しているのではないか。実利的なマイナスとは、功労者や上位役職者を排除すると、組織の秩序が崩壊し、下剋上の状態になることだ。
たとえば菅首相が森会長を辞任させたら、「功労者でも上位役職者でも、何か問題があったら下から突き上げて排除しても良い」という前例になる。すると、菅首相が何か問題を起こしたら、今度は自分が下から突き上げられ、権力の座から降ろされる。自民党全体が、自分がのし上がるために上位役職者の問題点を鵜の目鷹の目で探し、隙あらば突き上げる…。疑心暗鬼と下剋上の世界だ。
つまり、菅首相が森会長に辞任を迫らないのは、枝野代表が蓮舫副代表に謹慎を迫らないのは、党内の秩序を保ち、自分の権力の座を維持するためなのだ(東京福祉大学のケースはこれに当てはまらない)。
ただし、森会長や蓮舫副代表の暴走が今後も続くかどうかは、不透明だ。コロナ対策の失敗で窮地に立たされている菅首相は、森会長を辞任させて国民の信頼を取り戻したい。なかなか党の支持率が上がらない枝野代表は、蓮舫副代表を謹慎させて党勢を立て直したい。ともに、猫の首に鈴を付けることが、起死回生の一策になりうる。
森会長と蓮舫副代表が地位を追われ、平安時代から千年近く続いた「院政社会」が揺らぐのか、注目したい。
(2021年2月8日、日沖健)