アダム・スミスの幸福論

 

新型コロナウイルスで多くの人が不幸な境遇に追い込まれ、改めて幸福とは何なのか考えるようになっている。幸福とは何かという永遠のテーマについて考えてみよう。

 

大昔からさまざまな論者が幸福論を展開している中、意外と知られていないのが経済学の祖、アダム・スミスの幸福論。スミスは晩年、『道徳感情論』に以下の文章を追加している。

 

エピルスの王の寵臣が王に言ったことは、人間生活の普通の境遇にあるすべての人びとに当てはまるだろう。王は、その寵臣に対して、自分が行おうと企てていたすべての征服を順序だてて話した。王が最後の征服計画について話し終えたとき、寵臣は言った。「ところで、そのあと陛下は何をなさいますか」。王は言った。「それから私がしたいと思うのは、私の友人たちとともに楽しみ、一本の酒で楽しく語り合うということだ」。寵臣は尋ねた。「陛下が今そうなさることを、何が妨げているのでしょうか」。

 

スミスによると、慎ましく平穏無事な生活を送るのが幸せな状態であり、それ以上の贅沢な暮らしは、幸福感とは無関係である。スミスはまた『道徳感情論』の中で、「賢人」と「弱い人」を対比させている。「賢人」は、最低水準の富さえあればそれ以上の富は自分の幸福に何の影響ももたらさないと考えるのに対し、「弱い人」は、最低水準の富を得た後も富の増加が幸福を増大させると考える。

 

ただし、贅沢な暮らしが無意味なわけではない。王侯貴族や成功者が贅沢品を消費すると、贅沢品の生産に労働者が携わるようになる。最低限のものだけを生産する社会よりも多くの労働者が収入を得て、平穏無事な生活を送ることができるようになる。つまり、人々が大きな富を求めて自由に活動することによって、「見えざる手」に導かれて幸せな国民が増える…。これが(大雑把に言って)スミスの経済思想だ。

 

現下の状況で、「平穏無事な生活こそが幸せ」というスミスの考えに多くの人が賛同するに違いない。コロナで大きな被害を受けて、多くの人が平穏無事な生活を渇望している。では、仮に1年後、平穏無事な生活を取り戻したら、人々は幸福を実感できるだろうか。

 

今より不幸ではなくなるが、幸福に感じるかどうかは微妙だ。たとえば日本で、年収500万円あれば平穏無事な生活を送れるとしよう。かつて年収600万円だったあなたは、コロナの影響で年収が300万円に半減したが、1年後500万円に回復した。平穏無事な生活を取り戻し「やれやれ」と一息つくが、ここで日本人の平均年収が600万円に増えていると知った。さて、あなたは幸福感に浸れるだろうか。

 

500万円あれば幸せ、他人のことは関係ない」と考えることができるのは、スミスが言う「賢人」だ。「俺は500万円なのに、どうして他の人は600万円なんだ」と周りを気にするのは、「弱い人」である。

 

世の中には「賢人」も「弱い人」もいる。しかし、次のような事実から考えると、「弱い人」が圧倒的に多いのではないだろうか。

 

ž   日本はそこそこ豊かなのに、ブータンのような貧しい国よりも国民の幸福感が低い

 

ž   SNSには贅沢な生活を自慢する投稿が溢れている

 

ž   会社別の年収ランキングを載せると、雑誌がよく売れる

 

平穏無事な生活を送るのが幸せな状態であるというスミスの主張、他人が気になってしまうという人間の習性、この2つを合わせて考えると、幸せになるというのは有能な王ですらできない、極めて困難な願いなのだ。

 

私自身は、明らかに「弱い人」である。他人を気にせず生きるというのは無理なので、スミスが言う幸せな状態になることをかなり以前から諦めている。より価値のある仕事をして、より高い評価を得て、より大きな報酬を得るのが、自分のような「弱い人」にとって(ベストではないが)幸せな状態だと思っている。

 

(2020年5月25日、日沖健)