新型肺炎が猛威を振るっている。1月にWHOが指定感染症に定めた段階では中国・武漢の局地的な現象だと思われたが、ここに来て世界中に感染が拡大している。その間、政府・厚生労働省の水際対策は、4月の習近平国家主席の国賓来日や夏の東京オリンピックへの影響を意識して後手を踏んだ印象が否めない。取り返しのつかない事態にならないよう、対策強化を期待したい。
国民にも、細心の対策が求められる。感染予防のために手洗いを励行する。もしも感染したら、他人との接触を避け、被害を広めないようにする。こうした直接の対策に加えて、SNSを通したデマや不正確な情報のシェアなど不必要・不正確な情報を拡散させて不安心理を煽るのは厳に慎みたいものだ。
ところで、情報というと、専門家のコメントには注意が必要だ。今回マスメディアには多くの医療関係者が登場し、コメントをしているが、医師なら誰でも新型肺炎について専門知識を持っているとは限らない。現代の医学は高度に専門分化しており、感染症を専門とする医師以外のただの医師は、素人よりは少し常識が働くとい程度で、コメントはまったく当てにならない。
一般国民からすると「専門知識がないなら、大人しく黙っていろよ」と言いたいところだが、悩ましいのは、専門家もどきにも大きなニーズがあるという現実だ。こういう非常事態では、多くのメディアが一斉に報道するので、専門家の登場機会が増える。ただ、専門家がそんなにたくさんいるわけではないので、どうしても専門家もどきにもコメントを求めることになる。
私も企業経営の専門家のはしくれなので、今回のような事態になると、「週刊新潮」「東洋経済オンライン」といったメディアから企業経営への影響についてコメントや記事の寄稿を求められる。そして、「俺ごときがコメントして良いものか」と一瞬躊躇しつつ、基本的にはコメントなどを引き受ける。仮に私が辞退しても、別の専門家もどきが引き受けるだけだからだ。
コメントするのは、たいていまだ諸事情がはっきりしていない状態なので、本来あまり断定的なことは言えない。ただ「こういう可能性があります」「Aかもしれませんが、Bかもしれません」という弱弱しいコメントは歓迎されないので、「今後、事態はCで展開します!」と力強く言い切ることが求められる。その際は、できるだけ客観的な姿勢を取るように心掛けている。
客観的とはどういうことだろうか。マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性』によると、万人にとって客観的という状態はなく、人間だれしも認識の偏りがある。自分がどういう偏りを持っているのかを明示することが、科学哲学的な意味での客観性ということなのだ。専門家がコメントする場合、自分の立場・スタンスをはっきりさせること、また自分がわかっていることとわかっていないことを明示するのが大切だ。
私は、コメントする側の立場から専門家のコメントを見ている。きちんと自分の立場や限界を示して誠実にコメントする専門家もいれば、知りもしないことを好き勝手に言いたい放題という似非専門家もいる。もちろん、通常は前者が主体だが、事態が深刻になるほど後者の割合が増す。
正体不明の病原菌ということで、不安心理から藁をもすがる思いで専門家の意見に聞き入ってしまうというのは、よくわかる。しかし、専門家といっても玉石混交で、専門家のコメントには立場による偏りや限界があることを認識し、半歩引いて聞く必要がある。
(2020年3月2日、日沖健)