全米オープンテニスの女子シングルスで、大坂なおみ(人名は敬称略、以下同じ)が優勝した。昨年後半から急成長し、今大会はあれよあれよと勝ち上がり、決勝では自身の憧れだったセリーナ・ウィリアムズに完勝した。まだ20歳、今後どこまで強くなり、どういうテニスを見せてくれるのか、限りなく期待が膨らむ。
ところで個人的に気になったのは、マスコミやネットが「日本人初のグランドスラム制覇」と強調していることだ。大坂は日本人だが、ハイチ人の父と日本人の母とのハーフだし、3歳からアメリカで生活しており、日本語を話せない。本人がどこまで日本人を意識しているかはともかく、「日本人初の快挙」と言われると違和感を覚える。
そもそも、スポーツに国籍は必要なのだろうか。今大会、私は大坂の素晴らしいプレーにただただ感動した。技術だけでなく、初の決勝の舞台で史上最多23回のグランドスラム優勝を誇るセリーナを相手に動じず戦った精神力は、圧巻だった。大坂が日本人なのか、アメリカ人なのか、ハイチ人なのか、と微塵も考えなかった。伊達公子や杉山愛といった過去の日本の名選手のことも頭に浮かばなかった。
芸術の世界だと、誰も国籍を気にしない。ピカソはスペイン生まれで、フランスで活動したが、スペイン人なのかフランス人なのか気にする人はいない。私の好きなジャズでは、秋吉敏子・小曾根真・北村英治といった世界的な日本人プレイヤーがいるが、「日本人はスゴイ」とは考えない。単純に彼らの音楽が世界のファンの心に響いただけのことだ。
おそらくスポーツの世界は、他人と競争して勝ち負けを決めるので、勝因・敗因を探ると国籍・人種といった“違い”に目が向きやすいのだろう。また、国単位で競うオリンピックの存在も、国籍、ひいてはナショナリズムを意識させるように作用している。
ただ、卓球のように、国籍やナショナリズムを敬遠する競技もある。卓球の統括組織である国際卓球連盟は、1926年の発足当初から「自由・独立」という理念を掲げ、長く国ごとの対抗戦であるオリンピックとは距離を置いてきた(1988年のソウル五輪からオリンピック種目に)。
また、世界卓球選手権で12度の優勝を誇り、国際卓球連盟の会長も務めた荻村伊智郎は、卓球王国・日本のノウハウを惜しみなく世界に提供し、中国・スウェーデンなどでの卓球の普及・発展に貢献した。荻村は、世界中で卓球を楽しむ人が増えて欲しい、競技レベルが上がってほしい、という一念だけで、日本人とか外国人という意識はなかったのではないだろうか。
日本では、2019年にラグビー・ワールドカップ、2020年にオリンピックとビッグイベントがある。このせっかくの機会に、スポーツにおいて国籍にはどういう意味があるのか、グローバル化とは何なのか、競争とは何なのか、といった本質について考えたいものである。
ところで、企業経営でも、スポーツと同じように国籍・国境を強く意識する。日本企業・外資系企業・外国企業といった区分でよく経営について議論されるが、本当に意味のある区分なのか改めて考え直したいところだ。
個人的には、企業が日本国籍かどうか、経営者や従業員が日本人かどうかは、ほとんど意味がないと思う。色んな国の人が集まって良い仕事をし、良い製品・サービスを世界に提供し、世界の人々から愛される。国籍のない世界で国籍・人種に関係なく活動するのが企業の理想の姿ではないだろうか。
日本でも、国籍・人種を越えた大坂なおみのようなスーパースター企業がどんどん出現し、世界をより良くして欲しいものである。
(2018年9月10日、日沖健)