この時期、大学・大学院の教え子から「卒業しました」というご挨拶をよくいただく。また最近は、会社を退職する方からも「30年間務めた会社を卒業しました」といったご連絡をいただく。とくに、大手銀行に入った大学・高校時代の旧友は本体を退職して関係会社などに片道出向する年齢なので、このところ頻繁に「卒業」の連絡がある。
もちろんおめでたいことなので、「おめでとうございます」「お疲れ様でした」とか返信するのだが、個人的には、ちょっと引っかかるものを感じてしまう。「卒業」という言葉が嫌いだからだ。
「卒」とは「終わる」「死ぬ」という意味だ。学校を卒業するのは、「学業を終える」ということになる。たしかに、卒業すれば学校での学習は終わるのだが、それで学びは終わりだろうか。今日、経済・社会・技術がどんどん複雑化・高度化する一方、学校の短い期間で学べることには限りがある。学校を出たら学習を終えるのではなく、生涯に渡って学び続ける必要がある。
アメリカでは卒業式のことをcommencement(始まり)と呼ぶ。机上の学習を終えて、新たな人生のステージが始まり、実践を通して学び、さらに成長するということだ。学校での学習は、社会での実践学習を始めるきっかけ作りに過ぎない。「やれやれ勉強が終わったぞ」と疲労感がにじみ出る「卒業」という言葉は、新たな出発にふさわしくない。
それでも学校の「卒業」「卒業式」は一般的な用語なので、学生から「卒業しました」と言われて、違和感を覚えない。それに対し、かなり微妙なのが、社会人が会社を退職する場合、とりわけ短い勤務期間で退職する場合だ。
近年、退職時に「卒業」と言うようになったのは、AKBなどアイドルグループの影響であろう。前田敦子さんや大島優子さんのように、中心メンバーとしてAKBでできることをすべてやり切って次のステップに向かうなら、「卒業」と言われてまったく違和感ない。しかし、不人気のメンバーが首になる場合、しっくりこない。コロコロと転職を繰り返す中堅層や入社して数年で辞める若手から「卒業です!」と言われると、「首になっただけじゃないの?」「たった3年でやるべきことをやり遂げたの?」と突っ込みたくなる。
ということで、この時期は「おや?」と首を傾げることが多いのだが、同時に中小企業大学校・企業研修・社会人大学院の受講者・学生から卒業の報告をいただき、一年で最も感激する時期だ。
個人的に感激するのは2つ。一つは、「日沖さんの講義のおかげで学ぶ楽しさを知りました。もっといろいろなことを学びたいと思います」という感謝の言葉をいただく場合だ。ウィリアム・ウォードの「The great teacher inspires.(偉大な教師は学ぶ者の心に火をつける)」という名言のとおり、人に教える仕事をしている人間にとって、最高の賛辞である。
もう一つは、「日沖さんの講義で刺激を受け、独立して事業を始めることにしました」という報告をいただくことだ。事業で成功するのは並大抵のことではなく、正直「この人は食べていけるかな」と心配になることが多いのだが、リスクを取って挑戦する姿勢は尊い。「独立します」の一言で、無条件に応援したくなる。
中途半端な退職を「卒業」と呼んで自己陶酔する者、さらに次の学びのステージ、事業における実践のステージに向かう者。色々な「卒業」の姿、色々な思いが交錯する今日この頃である。
(2018年4月16日、日沖健)