最近、世界的にマスコミ叩きが激しさを増している。トランプ大統領がCNNなど大手メディアを「フェイクニュースだ!」と口汚くののしり、波紋を広げている。日本でも加計学園問題を巡って読売新聞が前川・前文科省事務次官の私生活を報道したことなど、マスコミの偏向報道がたびたび指摘されている。ネットでは、「マスゴミ」なる造語が氾濫し、世論調査の結果が出るたびに「マスコミの世論操作だ」と騒ぎになっている。
朝日新聞の慰安婦証言の捏造など、マスコミの捏造記事・偏向報道は昔からたくさんあった。にもかかわらず、最近とりわけマスコミの報道が問題になっているのはなぜだろうか。
1990年代前半まで、新聞・テレビといった大手メディアが重要情報を独占していた。ところがその後、インターネット・SNSが普及し、国民が大手メディア以外から情報を簡単に入手できるようになった。単なるニュースなら大手メディアに頼らなくても入手できるようになると、わざわざ新聞を読む、テレビを見るからには、ワンランク上の解説・分析を知りたいということになる。国民の大手メディアに対する要求水準が上がっている。
一方、メディアの多様化で視聴者・購読者の減少に直面する大手メディアは、大衆受けを狙ってセンセーショナルかつ低俗な報道に走るようになっており、報道内容は劣化している。国民の要求水準が上がるのに対し、メディアの報道が劣化し、国民のフラストレーションが一斉に噴出しているのが、最近のマスコミ叩きの背景的な理由であろう。
ということで、政治家の身勝手なマスコミ叩きは別にして、国民がマスコミを叩くのは、極めて合理的かつ健全な反応だと思う。ただし、その中でよく言われる「マスコミは客観的に事実だけを報道しろ」という意見には、強い違和感を覚える。
コップに半分水が入っているのを見て、ある人は「半分しか入っていない」と考え、別の人は「半分も入っている」と考えるように、すべての人間が事実をありのままに、客観的に認識することはない。「ならば、マスコミは分析・解釈をせず、コップに半分水が入っているという事実だけ伝えろ」と言われても、山ほどあるニュースから15分のニュース番組の中で、自民党の不祥事と民進党の路線対立問題のどちらを取り上げるかといった選択では、やはり価値観の違いが反映される。
われわれは、社会現象を客観的に認識できるのだろうか。そもそも社会現象を客観的に認識するというのはどういう状態なのだろうか。
この問題に正面から取り組んだ代表的な論文が、マックス・ヴェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の客観性」である。この難解な論文でヴェーバーは、社会科学では自然科学のように客観的に事実を認識することはできない、自分自身が拠って立つ価値基準を明確にすることが社会科学における客観性の意味なのだ、と主張している。
このヴェーバーの考えを報道に当てはめると、マスコミ各社は自社が拠って立つ価値基準や報道スタンスを明らかにする必要がある。「わが朝日新聞は権力へのチェック機能がマスコミの使命だと考えています。したがって、政権の不正・腐敗を批判する記事が多くなります。」「わが読売新聞は、国民の知る権利を高めることがマスコミの使命だと考えています。国民がもっとも知りたいのは政府の政策なので、体制側の宣伝的な記事が多くなります。」という具合だ。
ニュースの捏造はいけないが、ヴェーバーの考えによると報道が偏向しているのは別に悪いことでない。むしろマスコミは、「事実だけを伝えていますよ」とあり得ない客観性を装うのではなく、自社の価値基準を明らかにして偏向報道をするのが正しい報道のあり方なのだ。
われわれ国民は、報道に事実の提示だけを求めるのではなく、マスコミ各社がどういう価値基準に立っているのかを明らかにし、その報道の価値を判断するべきだ。もちろん、そのためには国民にマスコミ各社の価値基準が適切なのかどうかを判断する理解力が求められる。
(日沖健、2017年8月7日)