サンクコストを忘れろ

 

慶応義塾大学は、毎年、新入学生全員に創立者・福沢諭吉が自らの波乱万丈の生涯を綴った『福翁自伝』を贈呈している。代表作『学問のススメ』でなく、自叙伝『福翁自伝』を読んでもらっているのは、福沢の主義・主張や教育内容よりも、彼の生き様から色々なことを感じ取って欲しいということだろう。

 

『福翁自伝』の中で個人的に最も感銘を受けたのが、「英学発心」の逸話である。

 

中津藩の下級武士の家庭に生まれた福沢は、蘭学を志して当代随一の蘭学者・緒方洪庵の適塾の門を叩き、猛勉強の末、入塾わずか2年で塾頭になる。ところが、1859年、開港直後の横浜を訪ねたところ、居留地の外国人にオランダ語が通じない。世界ではもうオランダ語はほとんど使われておらず、英語が共通語になっていたのだ。

 

苦労が水の泡になって落胆した福沢だが、嘆き悲しんだのは1日だけ。翌日江戸に戻ると、蘭学を捨て、早速英語の学習を始めた。英蘭辞書を頼りに猛勉強で早々に英語をものにして、勝海舟らと咸臨丸に乗ってアメリカ訪問を果たした。そして、世界の動向や新しい科学思想を日本に紹介し、明治を代表する言論人・教育家になった。

 

幕末、幾多の蘭学者が活躍したが、明治維新後さらに活躍の場を大きく広げたのは福沢だけだ。大半の蘭学者は、明治維新とともに、すっかり“過去の有名人”に成り下がってしまった。福沢と大半の蘭学者との違いは、蘭学の習得をサンクコストと考えることができたかどうかだ。

 

サンクコスト(sunk cost埋没費用)とは、すでに支出されていて、今後の意思決定に影響を与えない費用のことである。たとえば、1億円で工作機械を購入したが、どうも調子が悪い。そのまま使うか、修理するか、買い替えるかどうかは、修理や買い替えにかかる費用(関連費用)と生産性の向上(関連収益)の差額(増分利益)で決定するべきで、サンクコストである1億円を考慮してはいけない。

 

「サンクコストを忘れろ」は、管理会計の最も重要な教えの一つである。蘭学をサンクコストとしてさっさと忘れて英学に転向した福沢は明治維新後に大活躍したが、サンクコストに囚われて英学に転向しなかった大半の蘭学者に活躍の場はなかった。私たちも、これまで投じた費用や努力を意識して見込みのない目標をあきらめきれなかったり、無駄な活動を止められなかったりすることがある。福沢の合理的思考を大いに見習う必要がありそうだ。

 

ところで、今日の日本で最もサンクコストに囚われているのは、高齢の経営者ではないだろうか。日本企業は、戦後、高度成長期からバブル期まで成功体験を積み重ねてきた。60代、70代の経営者は、その中でもとりわけ成功した人たちだ。彼らは、過去の成功を否定するのではなく、過去を連続的に発展させることを主張する。

 

「日本企業の人材は優秀だ。これからも人材の質を高め、優秀な人材を生かせるような戦略を考えていくべきだ。」

 

「日本のモノづくりは健在だ。グローバル競争では、品質面での優位性を活かすこと最優先に考えるべきだ。」

 

「グローバルスタンダードとか、その時々のムードに流されるのは間違いだ。日本には日本の良さがあるんだから、日本人・日本企業はもっと自信を持つべきだ。」

 

こうした主張がまんざら間違っているわけではないが、私が問題にするのは、考える順序とロジックだ。

 

たとえば、人材に関し、たしかに日本の労働者は決められたことを規律正しく実行することには優れているが、斬新なイノベーションやビジネスモデルを生み出すのはあまり得意ではない。これまで育成してきた人材が企業の将来のビジョン・戦略に合致しているかどうかは不明だ。

 

経営者が将来のビジョン・戦略を構想し、実現のために現在の人材のスキル・ノウハウが合致しているというなら良いのだが、合致しないなら、必要なスキル・ノウハウを持つ人材を新たに採用・育成するべきだ。将来のビジョン・戦略を構想する前から現在の人材を活用することを決め打ちしているなら、「サンクコストを忘れろ」という教えに背いていると言えよう。

 

ちなみに、今般の東芝の問題でも、サンクコストの問題がある。東芝の経営陣が将来の見込みがない原子力事業からの撤退を判断できないのは、「日本の産業界をリードしてきたわが社が社運を賭けて数千億円を投じ、ここまで頑張ってきたのに・・・」という気持ちがあるのだろう。

 

私たちは、知らず知らずのうちにサンクコストに囚われて物ごとを決めている。成功体験のある人ほど、「サンクコストを忘れろ」という金言を思い起こす必要がある。

 

(日沖健、2017年3月13日)