昨年ベトナム・ハノイを訪問した際、政治犯や戦犯を収容するホアロー収容所を見学した。人生50年で最大級の衝撃を受けたのは、実際に処刑に使われたギロチンの陳列である。薄暗く、見学者も少なく静寂で、もともと人間を寄せ付けない気配が漂うその一角は、表現しがたい不気味さを漂わせていた。
ギロチンを見て、たいていの現代人はぞっと背筋を寒くする。しかし、もともとギロチンは人道的な殺人装置だった。18世紀のフランスでは、斬首で死刑を執行するのが一般的だったが、腕の悪い死刑執行人の場合、刀で何度も死刑囚を切りつける凄惨な情景がよく起こった。医者で政治家だったギヨタンは、このことに心を痛め、死刑囚の苦痛を和らげるためにギロチンを開発したという。このギヨタンの人道主義への想いは、現代にあまり伝わっていない。
今年5月、製薬大手のファイザーは、アメリカの死刑で一般的な薬殺に鎮静剤や筋弛緩剤など自社製品が使われることに反対するという声明を発表し、製品流通を規制することにした。「人命を救うべき薬品が死刑に使われるのはおかしい」という人権保護団体からの批判に対応した措置である。欧米の主要な薬品メーカーはすでに同様の措置を採っており、ファイザーが残された最後の有力企業だった。ファイザーの撤退で、アメリカでは薬殺の実施が難しくなる。
アメリカは、毎年3千人近くが死刑宣告されている死刑大国だ。今回のファイザーの決定で薬殺ができなくなったら、絞首刑・銃殺・電気椅子などよる死刑が広がるに違いない。それらの死刑は、薬殺と比べて受刑者の苦痛が大きいとされる。今回の件をきっかけに「ならば死刑を廃止しよう」という方向に議論が進むかもしれないが、現時点では人道主義的にはむしろマイナスの影響が大きいといえよう。
ファイザーとしては、鎮静剤や筋弛緩剤は重要な収益源だし、受刑者の人権保護に貢献しているという自負もあったはずだ。利益のことはともかく、人権保護については、むしろ大きな貢献をしていることを認めてほしいという思いがあったのではないだろうか。
現代企業には、ますます高度な社会的責任が求められるようになっており、人道主義に反する経営は許されない。そして、最近の企業は、社会的責任や人道主義に縛られて、合理的かつ自由に議論することが制約されているのではないか。
たとえば日本では、障害者雇用促進法によって、一定以上の規模の企業には障害者の雇用が義務付けられている。障害者雇用が基準に満たない企業は、国に不足者一人当たり月5万円ないし月4万円の納付金(罰金)を支払う必要がある。そして、改善が進まない場合、厚生労働省から企業名を公表され、社会的な制裁を受ける。
ただ、オフィスワーク主体の障害者を活用しやすい業種なら良いが、組み立て型製造業や建設業のように現場の物理的作業の比重が大きい企業の場合、障害者雇用を増やすと生産性が著しく低下する。民間企業にはこうした規則を課さず、国・自治体や公的セクターが責任もって雇用するべきではないか。あるいは、規則を課すとしても、職場の事情を考慮し、業種ごとの雇用義務に差を付けるべきではないか。
障害者が色々な職場で社会参加することに意義があるので、上記の意見が絶対的に正しいとは言わない。しかし、製造業・建設業などの経営者が一つの考え方として問題提起するくらいは、十分に許容されるべきではないか。経営者から呑んだ席などで、障害者雇用法の理不尽さについて愚痴を聞くことはあるが、経営者が正式な場できちんと主張するのを聞いたことがない。女性の雇用なども同様だ。
社会的責任や人道主義は、基本理念としてはもちろん正しい。しかし、資金・人材など経営資源を効率的に活用し、良い製品・サービスを提供して社会の価値を高め、最大の利益を獲得するのが、資本主義社会における企業の最大の使命である。人道主義が絶対視されることで、企業が権利を主張したり、効率性や利益を意識した合理的かつ自由な議論をしたりすることが制約されるとすれば、企業だけでなく社会にとっても大きな損失だ。
企業は社会的責任や人道主義を尊重する必要がある。一方で、効率性と利益を求めて合理的かつ自由に主張・議論する必要がある。現代企業の経営者には、難しいかじ取りが求められる。
(日沖健、2016年7月25日)