このところ、賃金を巡る議論が活発だ。一つは、今年の春闘で3年連続のベースアップ(ベア)が実現するか、もう一つは、同一労働同一賃金が実現するか、である。今回は前者、3月16日の集中回答日を控えて差し迫った課題である春闘・賃上げについて考えてみよう。
日本の主要企業は、過去2年続けて春闘でベアを実施した。金融緩和で円安が進行して業績が回復したこと、加えてデフレ脱却のために消費を底上げしたい安倍政権が春闘に介入したことから、1990年代後半に消滅したベアが復活した。今年もベアを実施し、3年連続になることが期待されている。
ただし、財務省の法人企業統計によると、従業員給与・賞与の合計額は、2012年12月の35.1兆円から33.5兆円へと1.6兆円減少している。ベアが実現したのに、賃金の総額はむしろ減ったのだ。これは、ベアを実施したのは円安メリットを享受した大手製造業などに限られる一方、派遣・パートといった低賃金の非正規雇用が増えていることによる。
一方、2015年12月末の全産業の利益剰余金は355兆円で、2012年12月の274兆円から82兆円増えている。企業は、円安効果やコスト削減で収益を改善したが、賃金の引き上げや設備投資などに資金を使うことには及び腰で、内部留保をどんどん積み上げている状況だ。
金融緩和の効果がなくなり、株価は昨年夏をピークに下落傾向で、政権運営に逆風が強まっている。窮地に立つ安倍政権は、夏の参院選を控えて、過去2年間にも増して春闘に強力に介入する姿勢を見せている。
本来労使が話し合って決めるべき賃金に政府が介入するのはいかがなものか、という“官製春闘”批判があるが、それはさておき、春闘によって賃上げは実現するのだろうか。実現すれば、日本経済は良くなるのだろうか。
アベノミクスを支持する御用学者は、企業の財務体力は十分に高まっており、賃金や設備投資など前向きに使うべきだ、企業に任せておいてはいつまで経っても賃上げは実現しない、と官製春闘を支持する。そして、前向きな姿勢を見せない企業を「守銭奴」「意気地なし」と批判する。
しかし、話しはそう簡単ではない。経団連に加盟する大企業に半強制的にベアを実施させても、日本企業全体のごく一部に過ぎない。しかもベアを実施する企業の多くは、人件費負担の増大を防ぐために、ボーナスや採用の抑制に努めるだろう。日本だけでなく、米中の景気後退が懸念される状況で、自信を持って賃上げに踏み切る企業は少数派だ。
仮に何かの間違いで賃上げが実現しても、日本経済はあまり変わらないだろう。昨年からの原油安によって、日本の家計は年20兆円規模の恩恵を受けた。これは、2014年4月の消費税3%増税分の年8兆円を大きく上回る産油国からの“補助金”だが、消費は上向かない。日本企業の国際競争力が低下していること、社会保障制度が崩壊しつつあることなどから、少しくらい給料が増えても、国民は将来に備えて貯蓄に励む。国民は、円安とコスト削減がいつまでも続かないことを理解しているのだ。
先進国では賃金をいったん引き上げたら下げにくいこと(経済学で「賃金の下方硬直性」という)、日本ではいったん雇用した労働者は原則として解雇できないことから、企業は賃上げと採用に慎重だ。こうした中、あえて企業が賃上げに踏み切るのは、①事業の国際競争力が高まったと確信できたときか、②高い賃金を提示しないと優秀な人材を獲得できないと判断したときであろう。
日本では、企業経営者は“悪役レスラー”なので、「守銭奴だ」「意気地なしだ」という批判は大衆受けが良い。しかし、経営者もバカではないから、批判を受けることを覚悟で内部留保をため込むのは、将来の国際競争力に自信が持てず、自己防衛のためにやむなくそうしているのだろう。
政府がやるべきことは、金融緩和や春闘への介入ではなく、企業が国際競争力を高められるように事業環境を整備することだ。とくに、企業が安心して雇用や賃金を増やせるように、解雇規制や長期勤続を優遇する退職金税制を改めることは必須である。
(日沖健、2016年3月7日)