日本は学歴社会か?

 

気のせいかもしれないが、最近ネットや雑誌で学歴社会を巡る議論・記事が増えているように思う。硬直化した日本の学歴社会、とくに採用や組織内での理不尽な学歴差別を非難する意見や高学歴なのにあまり出世せず、鬱屈している中高年社員を紹介する記事が目立つ。逆に、昔の松下幸之助や田中角栄のように低学歴なのに成功した人は、数としては結構いるはずなのにあまり話題にならない。

 

そういう議論・記事の前提として、「日本は学歴を過度に重視する、歪んだ学歴社会だ」という認識があるようだ。しかし、日本が学歴社会だという認識は正しいのだろうか。

 

まず、大学に入る段階で、中国・韓国などアジア諸国では、家族だけでなく親族も巻き込んでし烈な受験戦争を繰り広げている。受験のプレッシャーで自殺する若者が後を絶たず、中国では飛び降り自殺を防ぐために防犯ネットを張る中学・高校が多いという。それに対し日本では、私立大学の入学者の半数以上がAO・推薦など競争・受験勉強をせず入学するようになっている。もはや「受験戦争」は死語だ。

 

アジアで受験戦争がし烈なのは、就職事情が厳しく、一流大学を出ないとまともに就職できないからだ。経済が発展し、ビジネスが高度化すると、企業は知識・スキルのある経験者を優先的に採用し、新卒はよほど優秀な者しか採用しなくなる。一流大学を出ないとフリーター人生が待っているわけで、アジアの若者の学歴に対する思いは切実だ。それに対し、新卒一括採用という世界でも珍しい仕組みによって知識・スキルがなくてもひとまず就職できる日本の学生は、学歴に対するこだわりが弱い。

 

自由の国アメリカでは、学歴へのこだわりはないと思いがちだ。しかし、事実はまったく逆で、アメリカ企業は異常なまでに採用応募者の学歴にこだわる。エリートとされるMBA卒業生の採用でも、ランキング上位20校の学生とそれ未満の下位校では別個に採用説明会を行っている。日本ならネットで「差別だ!」と大騒ぎになりそうだ。

 

入社後、企業内で学歴による差別やいわゆる学閥があるかどうかは、よくわからないというのが実態だろう。ただ、社内で学閥を作ったり、昇進・昇格で特定の大学の出身者を露骨に優遇している企業は、日本を含め世界中で激減しているはずだ。

 

私は慶応大学を卒業したが、かつて鐘紡や三越が慶応閥の会社として有名で、役員の大半が慶応卒だった。しかし、両社ともあえなく事実上破たんした(三越は伊勢丹が救済)。学閥の存在を放置する前近代的な会社が生き残れるほど、世の中は甘くない。

 

昇進・昇格というと、前職の日本石油(現・JX)にいたT君のことを思い出す。T君は、「T天皇」と呼ばれる実力社長の甥っ子で、東京の一流私大を出て入社した。ところが、昇進・昇格で優遇されるどころか、同期入社全員がほぼ同時に昇進する主任に上がるのが1年遅れた。日本石油のような規制業種でもこんな具合だから、競争が激しい一般業種ではもっとシビアだろう。人事部門は、社員から「不公平だ」と批判されたくないので、学歴などは考慮せず、公正に人事考課をしているものだ。

 

こうして見ると、「日本は学歴社会だ」という議論は、まったく的外れだ。となると、こんなに学歴軽視の日本でなぜ学歴論議が盛んなのか、という別の疑問が湧く。

 

学歴論議に参加しているのは、社会で成功していない人たちだろう。高学歴だが成功していない人は「こんなに優秀な俺様が出世しないのはおかしい。会社が悪い」と考え、優秀さの証しである学歴にアイデンティティを見出す。低学歴で成功していない人は「学歴社会だから俺の人生はうまく行っていない。社会が悪い」と考え、諸悪の根源である学歴を攻撃する。言ってみればストレス解消、憂さ晴らしだ。どうしてもっと生産的なことでなく、学歴で憂さ晴らしをするのかは、ちょっと謎だ。

 

学歴社会を批判する人は、学歴に代わる人材の評価尺度として人柄や相性を重視する。しかし、短時間の採用面接で人柄を知るのは困難だし、そもそも人柄と入社後のパフォーマンスの良し悪しに明確な相関はない。相性となると、人柄よりさらにあいまいだ。それらに比べて学歴は公明正大で、ずっとマシだ。

 

学歴に関して是非改めて欲しいのは、大学のランキングの付け方である。欧米では、論文引用回数・授業の質・就職先・卒業後の年収など実に多面的にランク付けをする。それに対し日本では、予備校の模試の偏差値でランクが決まるという何とも不可解な状態である。欧米のような多面的な評価であるなら、学歴は人柄・相性よりもはるかに有用な評価尺度であろう。

 

(日沖健、2016年2月15日)