人にものごとを教える商売をして、今年で15年になる。社会人大学院や企業研修など色々な機会をいただいている。うまく教えることができたと自分なりに納得することもあるが、うまく行かない場合も多々あり、何年たっても教えるというのは難しいことだと痛感する。
教えるのが難しいとは、いったいどういう意味だろうか。
自分の専門知識を相手に伝えるのは、それほど難しいことではない。教える側は、自分の専門領域に何年も取り組んでいるわけで、知識の幅も深さも学ぶ側をはるかに上回っている。相手の知識レベルに合わせて、例示などをまじえて丁寧に説明すれば、たいてい理解してもらえる。
ただし、社会人大学院や企業研修は時間が限れられるので、伝達できる知識の量には限りがある。私が教えている社会人大学院の場合、1コース=1コマ2時間半を9コマ、時間数で言うと計22.5時間、ほぼ丸一日である。この時間数では、基本事項は伝えられても、実際のビジネスで役に立つ発展的なことまでは、なかなか伝えられない。
結局、学校や研修で教えられることには限界があり、自分なりに学ぶ必要がある。とくに、私が教えている経営学は実践の学問なので、基本を理解して終わりでなく、自分のビジネスではどう当てはまるのかというところまで学んで、初めて学習が大きな意味を持つ。また、他人から「これを勉強しなさい」と押し付けられるのと、興味を持って自ら進んで学ぶのでは、学習効果が大いに異なる。
哲学者ウィリアム・ウォードが素晴らしい言葉を残している。
The mediocre teacher tells.(凡庸な教師はただしゃべる)
The good teacher explains.(良い教師は説明する)
The superior teacher demonstrates.(優れた教師は手本を見せる)
The great teacher inspires.(偉大な教師は学ぶ者の心に火をつける)
ウォードによると、わかりやすく教えることよりも、学ぶ者に「もっと学びたい!」と思わせることが大切だということだ。良い教師の条件は、物事をよく知っているとか、説明の仕方がうまいとかいうことではなく、学ぶ者の学習意欲をかき立てられることなのだ。
おそらくこれが、教えることの最大の難しさであろう。イギリスの格言で「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない(You can take a horse to the water, but you can't make him drink.)」と言われる通りだ。
私はウォードが言う“偉大な教師”には到底達していないが、そうなるために心掛けていることがある。それは、講義の中で学習内容と関連した余談をすることだ。限られた講義時間の中でも、コンサルティングで出会った企業のこと、自分がサラリーマン時代に経験したこと(とくに失敗談)、最近のニュースを見て感じたこと、などを話す。もちろん、単なる余談ではなく、受講者の関心を探って、学習意欲をかき立てるような内容のことを話す。
余談をすると、露骨に「忙しいのに余計なことしゃべる講師だな」という顔をする受講者もいれば、講義後に「あの雑談は面白かったです!」と声を掛けてくれる受講者もいる。何か月か経って「研修で刺激を受けて、色んなことを勉強するようになりました」というメールをもらうと、最高に嬉しい。
個人的な印象だが、十年前と比べて、余談を嫌がる受講者が増え、喜ぶ受講者が減っているように思う。人減らしで業務が多忙になり、自分の担当業務以外に目をやる余裕がなくなっているのだろうか。本当なら日本企業の人材育成にとって由々しき事態であり、私の思い違いであることを祈りたいものである。
(日沖健、2016年1月11日)