教育は平等も格差も作り出す

 

今年のノーベル平和賞に、パキスタンの少女マララ・ユスフザイさんが選ばれた。マララさんは、タリバンに抑圧された女子高での生活についてブログで発信し、世界的な反響を呼んだ。タリバンに銃撃されて瀕死の重傷を負ったことにもめげず、その後も精力的に人権擁護の活動を続けている。

 

近年ノーベル賞がだんだんと政治的になっているのを懸念する声があるが、それを是とすれば、イスラム国が誕生し、勢力を拡大している今日、政治的なメッセージとしてはまさにタイムリーで、大きな意義がある。これを契機に、人権擁護の活動が世界的なうねりになって行くことを期待したい。

 

とくにマララさんが取り組んでいるように、女性や貧困層など、教育の機会に恵まれない子供たちがたくさんいることは、世界中の人が直視すべき問題だ。アフリカなどでは、貧困から初等教育すら満足に受けられない子供が多く、それが人的資源の高度化を阻み、一層の貧困を招くという負の連鎖に陥っている。

 

日本やアメリカなど先進国でも、アフリカほど深刻ではないにせよ、教育機会の提供は重要な課題である。日本でも、家庭の事情で高等教育を受けられない子供たちは多い。こうした所得格差やそれによる教育格差は、親から子、子から孫へと受け継がれていく傾向があるとされる。政府は、高等教育の低価格化・無償化や低所得者への支援を拡充するべきだ。

 

ただ、同時に、教育には限界があることを理解する必要がある。たしかに教育には不平等を解消する大きな効果があるが、万能薬ではない。万人が高等教育を受けられるようになっても、依然として色々な問題が残る。

 

初等教育は、人間が文化的な社会生活を営む上で必須のものだ。初等教育の改善は、下位層のレベルアップに繋がり、生活水準の向上、そして平等な社会の実現に寄与する。多くの国で初等教育が義務化・無償化されている通り、無条件に良いことだと言えよう。

 

一方、高等教育の効果はたいへん微妙だ。高等教育は、初等教育と違って難易度の高いので、誰もが簡単に習得できるわけではない。また、仮に習得したとしても、それが社会に出て直接的に役立つとは限らない。いや、大半は役に立たない。したがって、教育の機会という点では平等になっても、教育の効果という点ではどうしても格差が残ってしまう。いや、残るというより、教育内容が高度化し、応用的な学問や研究のレベルになると、教育の効果で成果が出せる者と出せない者が明確に分かれる。むしろ、格差はどんどん広がっていく。

 

つまり、初等教育は底上げによって格差を縮め、平等な社会を作ることに寄与するが、高等教育はむしろ格差を広げる可能性があるということだ。マララさんの活動にケチを付けるつもりは毛頭ないが、教育によって平等な社会が実現するというのは、ちょっと理想論的すぎる。発展途上国などに限って言える話で、私たちが住む先進国には当てはまらない。

 

福沢諭吉は、『学問のすすめ』の冒頭で、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言えり」と述べた。よく誤解されるが、福沢は博愛主義・平等主義を説いたわけではない。あまりにも有名なこの一節のすぐ後に、にもかからず現実の世の中には理不尽な格差がはびこっており、それは教育を受けているかどうかに起因する、だから教育が必要なのだ、と議論を展開している。

 

福沢が格差そのものをどう考えていたのかは不明である。ただ、機会の平等は確保すべきものの、教育によって格差が生まれることを肯定していたのではないか、という気がする。

 

マララさんの受賞は、教育と社会の関係について考える良いきっかけになる、教育は社会をどう変えるのか、教育によって人々は幸福になれるのか、といった議論が深まることを期待したいものである。

(日沖健、2014年10月13日)