5月は仕事が暇なこともあって、所属する日本経営分析学会の年次大会などいくつかの学会に出席した。
学会に出席する最大のメリットは、各分野の最先端の研究に触れられることである。コンサルタントとして活動する上で、最先端の研究を知っている必要はない。むしろ、叩き上げの社長さんなどには「小難しいことばっか言うなよ」と煙たがられ、マイナスだ。ただ、研究動向を知っているのと知らないのでは、クライアントに同じ言葉を発しても深みが違ってくるのではないかと思う。
それよりも個人的に嬉しいのは、若手研究者の溌剌とした発表から新鮮な刺激を得られることだ。学会では、博士課程の大学院生など、これから研究者として羽ばたく若手研究者が発表をすることが多い。素人の私から見ても粗削りで隙だらけの発表が多いのだが、何とか発表を成功させようと必死にくらいつく姿は、コンサルタントを始めた頃の熱い気持ちを思い出させてくれる。
ところで、若手研究者が熱心に学会発表をするのは、発表を元に論文を書き、学会誌に投稿し、その業績が認められて最終的に大学や研究所に正規の職を得るためである。文部科学省「学校基本調査」(2012)によると、博士課程修了者のうち正規の就職をした者の割合は52%に過ぎない。1990年代後半に文部科学省の方針を受けて各大学は大学院を拡充したが、大学・企業が博士を採用する動きは広がらず、博士修了後も正規の職を持たない“ポスドク”が大量に生まれた。
博士課程の学生やポスドクは、大学や研究所に正規の職を得るまで、経済的な困難とも戦いながら、数少ない正規の職を得るため必死に努力をしている。おそらく日本で最も過酷な競争に身を置いている。ところが、ひとたび大学で正規の職を得ると、その先には桃源郷が待っている。研究をしなくても、授業を休講しても、(冗談ではなく)女子大生に手を出さない限り定年までクビにならない。おそらく日本で最もぬるま湯的な職場である。壁の手前と向こう側では、何とも鮮明かつ理不尽な対照がある。
今回、STAP論文で小保方晴子氏が不正を働いた背景として、一刻も早く業績を挙げることを迫られているポスドクの過酷な環境があったと指摘されている。事件をきっかけに、若手研究者を成果主義で選別することの是非を問う声が高まっている。
研究の世界だけではない。日本企業では、1990年代後半にグローバルスタンダードの掛け声の下、成果主義で業績を評価する人事制度が大流行した。しかし、「社員が成果に直結する仕事しかしなくなった」「社員同士が成果を争うようになり、職場がギスギスするようなった」などと批判が噴出した。2000年代後半、成果主義を放棄する企業が続出し、今では「日本では成果主義は失敗だった」という了解になっている。
このように、日本では成果主義は旗色が悪いようだ。しかし、個人的には、日本の学術や経済を再生させる上で、成果主義は極めて重要だと思う。
理由は実に簡単。アメリカやアジア諸国を中心に世界の企業は成果を巡って熾烈な競争をしているからだ。1990年頃までの日本企業は、国家としてはアメリカの、産業レベルでは監督官庁の庇護を受けていたことや中国など新興国が台頭していなかったことから、本格的な競争をしていなかった。20年以上も日本企業が停滞しているのは、世界中がグローバル競争を必死で戦うようになったのに、日本企業はグローバル競争を「悪いこと」と「避けるべきこと」として背を向けてしまったからだ。
もちろん、競争には弊害もあるのだが、資源の効率的な利用やイノベーションなど、競争によってもたらされることは実に多い。競争が避けられない環境になったからには、弊害だけを見て競争に背を向けるのではなく、進んで競争に身を置くことが大切だ。
日本企業では、年功序列化した職能資格制度が今なお主流である。能力や年齢よる評価にもそれなりに良さはあるのだが、従業員を成果実現に向けて強力に直接的に動機付けるのは難しい。成果主義の問題点を非難するよりも、まずどうすれば成果主義が定着し、機能するのかを考えるべきだろう。具体的には、アメリカ型の“結果主義”をそのあま取り入れるのではなく、結果を生むプロセスや行動も成果に含めて評価するといった対応が必要である。
競争に背を向けてみんな仲良く衰退していくか、少々風土がギスギスしても活力ある組織として成長するか。経営者には重大な決断が迫られているように思うのである。
(日沖健、2014年6月9日)